鷲尾英一郎の日記

鷲尾英一郎衆議院議員(地元出身!県民党として動く! 筋を通し行動する!)の公式ブログ。鷲尾英一郎本人更新

鷲尾英一郎の日記

TPP11を前に熱狂に潜むプロパガンダの危険性を考える

選挙になると極端な言説がまかり通ってしまう。しかし、それでは国民と政治の信頼感は生まれず、結局虚無感や諦めが支配することになる。それは民主主義を奉じる国民国家にとって、最も重大な国民の当事者意識を失わせる結果をもたらす。

選挙時の熱狂的な集票活動

私の初当選は2005年の郵政民営化の総選挙。地元のミニ集会で、当時の総理大臣を質問しても忘れてしまっている人が多い。言わずもがな、小泉純一郎氏である。総選挙に際して「郵政民営化は改革の本丸であり、死んでもやる」と勇ましい発言を行って小泉劇場を巻き起こした。結果は自民党の大勝。小泉チルドレンという言葉が生まれた。

やり玉に挙がった郵政関係者は気の毒としか思えない。私自身、郵便局を改革して、果たして死ぬのか?と素朴に思ったが、そんな冷静な見方は熱狂によってかき消され、郵政民営化は実現されたが、果たして改革の本丸実現によって私たちの社会が抜本的によくなった実感はない。

次の総選挙は2009年。政権交代の熱狂によって自民党は下野したが、脱官僚依存によって日本は変わるとの大上段の主張空しく、天下りは相変わらず続き、政治主導が混乱の代名詞に成り下がってしまった。政権与党を経験した民主党はすでになく、民進党も先の総選挙で事実上崩壊した。

2012年の総選挙で民主党は下野したが、自民党は公約でTPPに明確には触れず、TPP推進を訴える候補と「自民党はTPP絶対反対」というスローガンを掲げる候補者がおり、選挙区ごとに都合の良いダブルスタンダードの態度であった。自民党は今では「TPPを先導するのは日本」と嘯いているが、TPPについて散々な誹謗中傷があったことは最早忘れ去られたようだ。

何故TPPは議論されなければならなかったのか

当時のTPPの議論の主流は、関税自主権がなくなるだの、内外無差別によって米国から干渉を受け日本はめちゃくちゃになるだの、刺激的な反対論と、第3の開国などという的外れな推進論、不利益を被る分野を無視した無条件推進論などであった。このなかで誰一人、「なぜ今」TPPの議論が沸き起こっているのか、「なぜ今」議論せねばならないのか、と答えられる人はいなかった様に思う。交渉の条件がどうなるか、それに伴うメリットデメリットを論ずる前に、「なぜ今」議論せねばならないのかが分からなくて、TPP賛成、TPP反対の議論ばかりがまかり通るのは本当に残念でならなかった。

当時、色々な思いがありながらも政府与党として「TPP交渉へ参加すべし」と主張し小選挙区で落選の憂き目を見た(北陸信越ブロックで比例復活)私としては、TPP11発効を目前にして、なぜ交渉参加が必要だったかを、改めて書き記しておきたい。

TPPが議論されなければならなかった理由とは、ひとことで言えば、世界の経済構造の変化による。1980年代GATTウルグアイラウンドの頃、世界で貿易を行っていた国は少なく、メインプレーヤーとしては、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、日本。お互いが顔の見える中で議論していけば世界貿易のルールは、ある意味簡単に(交渉は熾烈を極めたが)決まった。

しかし冷戦の崩壊や新興国の台頭によって世界貿易に参加するプレーヤーが増え、かつ新しい参加国の方が世界貿易の主役を担うようになると、2000年代には次第にWTOGATTの後継組織)でルール自体が決まらなくなっていく。

次第に、2国間での貿易協定締結が増えだした。それがFTAEPAである。FTAEPAが増えだすと、地域によって包括的な貿易協定を結ぶ動きが加速する。NAFTAやTPPがその例であり、特に貿易立国シンガポールは超大国中国との対抗上、TPPを発展的に「米国」「日本」を入れることによって貿易のルール形成に主導権を握ろうとしたのである。

TPPで関税ゼロは大きな誤解

日本は、世界経済の変化の中で、WTO固執するか、あるいは新しいルール形成の場を求めるかの選択を迫られていたのだ。ここまでの理解があって初めてTPP交渉への参加の意味が分かろうというものだ。ちなみに、すべての関税がゼロになるというのも大嘘。医療制度が崩壊するというのも大嘘である。

そもそもTPPに交渉参加していた米国と豪州の間では、二国間協定で関税が設定されており、新たにTPPへ交渉参加することによって、米国と豪州の二国間協定で獲得したものを捨て去る状況にはなかったし、日本の公的医療保険制度は諸外国から高く評価されており、とりわけ日本の薬価制度はアメリカにとっても都合がよいため、そもそも議論にすらならなかったのだ。

結果として関税はゼロにならず、公的医療保険制度も手付かずというところからしても、過剰に刺激的な言説は、単なる集票のための熱狂を生み出す為の、為にする議論だったことが明らかである。時として振り返らねば、私たちが少しでも賢い政治的選択をすることにはつながらない。